木樫蓮

木樫技研の所長です.

デッカードがレプリカントでは断絶は解消されない

映画「ブレード・ランナー 」あるいは「ブレード・ランナー 2049」(以下 2049 という)は,現在に至るも人に多くを語らせるという意味でも不朽の名作といえるだろう.ここでは「2049」の核心部分に触れるので,まだ「ブレード・ランナー」や「2049」を観ていない人はここでさようなら.

 

 言うまでもなく「2049」の核心は,「ブレード・ランナー」のラストで逃亡したデッカードとレイチェルの間に子供が生まれたことにある.この「事実」を軸に人とレプリカントを分ける価値観が揺さぶられ,さらに明らかな創造物としてのジョイの存在を映し鏡として自我とは何かについての問いが繰り返される.

 

このようなブレード・ランナーの世界が内包する様々な問いについて語りだせば時間がいくらあっても足りなくなるので,ここでは「デッカードレプリカント説」についてのみ述べる.ここで「説」とあらためて書いているのは,そもそも「ブレード・ランナー」が公開された時点では監督のリドリー・スコットですらデッカードレプリカントとして設定していなかったからである.ユニコーンを折り紙や夢に登場させることでデッカードがもしかするとレプリカントではないかと思わせ,レプリカントを映し鏡として人の自我について問い直すことを促しているのが「ブレード・ランナー」である.

 

それがある時を境にリドリー・スコットは,デッカードレプリカントであるというアイデアを気に入ってしまい,「デッカードレプリカント」を明言するようになる.従ってこれよりも後に作られた「2049」は,デッカードレプリカントであることを前提としている.するとデッカードとレイチェルの間に生まれた子供は,あくまでもレプリカント同士の間に生まれた(種としての)レプリカントであって,人とレプリカントのハイブリッドではなくなる.

 

ブレード・ランナーにさらなる続編が生まれるかどうかはわからない.しかしこの「奇跡の子」がハイブリッドでなければ永遠に人とレプリカントの断絶は解消されない.ターミネーターが延々と人と機械との戦争を描き続けたように,人とレプリカントとの闘争を描くシリーズにしかなりえない.デッカードが人であり,レプリカントであるレイチェルとの間にハイブリッドの子供が生まれてこそ「奇跡の子」は「希望の子」になり得る.

 

現在の社会情勢を考えれば融合のシナリオが求められるだとか,商業的に考えればレプリカントに自己再生産能力をもたせるほうが続編が作りやすいだとか,そのような映画の範疇を越えた話をしたいわけではない.ただ「ブレード・ランナー」から「2049」のエンディングまで,デッカードやレイチェル,ケイやジョイと共に旅をしてきた終着点が断絶では救いがないのだ.

 

--KGR